サリンが撒かれた、あの日

あるお客さんがあの日、慈恵会医大病院で看護婦として働いていたというのです。よく知っている人なのですが、その話は初めて。なんと同じ時に同じ場所にいたのです。私はあの日、記者として慈恵会医大病院で取材をしていました。廊下まで患者さんが溢れ、その多くは「痛い、痛い」とハンカチで目を押さえていました。その人たちに被害にあった時の状況を聴いて回ったのですが、その間も救急車が次々にやって来る、という状況でした。そう、あの日とは、地下鉄サリン事件(13人が死亡、6000人以上が負傷)が起きた1995年(平成7年)3月20日のことです。

あの日はどういうわけか、明け方に帰って来たのに少し寝たら目が覚めてしまい、デスクから電話が掛かってきた時には起きていました。「救急車が都内を走り回っている。何が起きているのかもう一つ解らないが、お前はとにかく神谷町の駅へ向かってくれ」というのです。当時は皇室の担当。しかし、社会部は緊急時、総動員は当たり前ですから急いでタクシーを呼びました。実は部内では2週間ほど前から、「オウムが何か仕掛けてくるのではないか」という噂話をしていました。こちらは「うわ、きっとオウムだ」という気持ちで現場に向かったわけですが、着いた時には既に閉鎖。そこで被害者が搬送されていた近くの慈恵会医大病院に回ったのです。

あの事件を起こしたオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(63)、その元弟子6人の死刑が6日午前、東京拘置所などで執行されました。今回、刑が執行されたのは松本死刑囚の他、早川紀代秀死刑囚(68)、井上嘉浩死刑囚(48)、新実智光死刑囚(54)、土谷正実死刑囚(53)、中川智正死刑囚(55)、遠藤誠一死刑囚(58)の合計7人。一日に7人の死刑が執行されるのは、法務省が死刑執行の事実と人数の公表を始めた1998年11月以降では最多。教祖と幹部にまず刑を執行した格好です。

一連のオウム裁判はこの1月、最後の被告人だった高橋克也被告(地下鉄サリン事件の時の運転役)に無期懲役の判決が出たことで終結。法的には判決から6か月以内に執行、となっています。その原則に沿った動きであり、法務省には「平成の大事件は平成のうちに区切りをつける」という意識もあったでしょう。3月には死刑囚13人のうち7人が東京拘置所から全国各地の拘置所へ移送され、執行が近いとの見方が出ていました。法務省はこれまで、死刑執行について「心情が安定した状態で執行をめざす」と言ってきましたが、残り6人にもさまざまな形で情報は伝わるでしょう、次の執行も近いとみられます。

松本死刑囚の「奇行」は知られるところです。奇声を発し、汚物を垂れ流し、面会も拒否していました。裁判中に精神を病み、心神喪失状態になった…。そんな理屈で執行を疑問視する声があります。しかし、控訴棄却を決めた東京高等裁判所は、一審の公判廷での言動、精神鑑定に加え、10回以上の及ぶ弟子たちの公判出廷での対応などから、「被告人の訴訟能力は保たれている」と判断しています。しかも、彼には「弁明する機会」がいくらでもありました。彼は無差別テロの首謀者であり、多くの人名を奪い、同時に多くの信者に犯罪を実行させながら、一審の公判では「弟子たちが起こした」などと無罪を主張。そして事件の真相を語りませんでした。最後まで無責任な人間だったといしか言いようがありません。

一方、井上死刑囚は初の再審請求を行ったばかり。法務省は以前、再審中の執行を控えてきましたが、それによって罪を認め刑を受け入れた人間の執行が先になり、そうでない者が長く執行されないという不公平が生じます。そのため最近は方針を転換、再審中の執行を行うようになりました。井上死刑囚は地下鉄サリン事件での役割について、一審は「連絡・調整的な役割にとどまっている」として無期懲役の判決を受けた後、控訴審では「総合調整ともいうべき重要な役割」として死刑判決を受けました。確かに「初」、「出したばかり」は事実ですが、なぜいまになって再審請求なのでしょう。

もちろん、教祖と幹部の一斉処刑のデメリットも解ります。松本死刑囚たちが“殉教者=自らの信仰のために命を捨てる者”として神格化され、後継教団に利用されかねません。死刑囚の多くは、オウムに入る以前は、ごく普通の、あるいはとてもまじめな若者たちだったという証言が多くあります。そんな彼らがなぜ、いかにしてオウムに吸い寄せられ、未曾有のテロ事件を起こしたのか、その解明も難しくなるでしょう。しかし、あれこれ考え過ぎて刑を執行できない、というのでは本末転倒です。事件の犠牲者たちは罪なく彼らに「殺された」のです。死刑囚たちは松本死刑囚以外、既に語るべきは語っています。

オウム真理教があれほど勢力を伸ばしたのは、日本列島に札束が乱舞するというバブル景気とその崩壊で、多くの人の価値観が翻弄されるという混乱が背景にあったからでしょう。そこに漠然とした世紀末の不安。意味のある、意義のある人生を模索する若者たちが絡め取られてしまったわけです。自分探しをしている若者たちにとって、取り敢えずの任務が与えられることで自分が必要とされているということを実感できるる場、そこがオウムだったわけです。ということは、「第2のオウム」は常に生まれる可能性があるということです。いまも自分の居場所を見付けることが難しいことに代わりはありません。いや、「時代の空気」は当時より混沌としています。

実はあの日、駅に向ってタクシーに乗っていた時、記者として大先輩の叔父から自宅に電話があったという連絡が来ました。叔父が「テレビで流れている情報しかないが、嫌な予感がする、事件に巻き込まれる可能性がある。仮病でもなんでもいいから理由を付けて現場に出るな」と伝えてきたというのです。大ベテランの叔父をして、これです。世間に与えた事件の衝撃の大きさを、物語ってあまりあります。実際、記事を病院から電話で送る時のやりとりの中で、先輩のカメラマンが閉鎖前の神谷町の駅に入り、サリンを吸ってしまって緊急搬送されたことを教えられました(先輩は半年後に退院、幸いにも後遺症が残りませんでした)。

しかし、私は叔父のその言葉を聞いた時、「それほどの現場なら、なおさら自分の目で見ないと」と思ったのです。その意味で、記者であることを自覚した日でもあります。そんなこともあり、地下鉄サリン事件は私にとっても忘れることのできない事件です。看護婦として被害者の手当をしたことで、彼女も事件の決着がずっと気になっていたそうです。「刑が執行されて、自分の中の何かに区切りが付いた」という彼女の言葉を聴いて、「そうなんだよな、俺も」と、一緒にホッとできた自分が居ました。事件から23年。事件の犠牲になった方々のご冥福をお祈りすると同時に、「第2のオウム」が出現しないような社会の実現をめざさなければ、と改めて感じた夜でした。

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