語り継ぎたい36連隊


きょうある会議で、歩兵第36連隊のことが話題に出ました。ところが、60歳以上の人でも、かつて鯖江にあった36連隊のことをよく知らないのです。市内に「嶺北忠霊場」があり、そこに大きな忠霊塔が建っていることはみんな知っています。しかし、それがなんのための忠霊塔なのか、なぜそれがあるのか、それを知る人はまずいません。忠霊塔が記念碑ではなく、中にはいまも約25,000柱が鎮座する本物のお墓であることも。忠霊場の中には、旅順総攻撃で戦死した第2代連隊長の三原重雄大佐(戦死して少々に特進)の墓と顕彰碑もあるのですが。


また、市内の誠照寺には(いまは「誠市」が開かれる、地元ではご本山と呼ばれているお寺です)、南京一番乗りを祝い、戦死者を弔う「忠霊堂」もありますが、これも知られていません。地域医療を支える丹南病院についてもそうです。鯖江にはかつて、街の大きさに不釣り合いな国立病院がありました。それには理由があります。軍が解体されるのに伴い、廃止せざるを得なくなった兵営内にあった衛戍(えいじゅ)病院を、国が取り敢えず国立病院として存続させたからです。その後身が現在の丹南病院なのです。


往時の36連隊は浅水川から現在の「嶺北忠霊場=当時は陸軍墓地」までの広大な敷地を所有し、それ以外に坂井郡新保村(現在の坂井市三国町新保)に「三里濱演習場」、大野市松丸不動堂(現在の大野市南六呂師)に「六呂師原演習場」を持っていました。現在の福井鉄道「神明駅」は、36連隊があった時は「兵営駅」と呼ばれていました。そこから広がる兵営の中には6つの兵舎があり、戦後しばらく海外引揚者住宅、新制小学校や福井大学校舎に転用されました。そういったこともほとんど知られていません。


それもこれも、この街では「軍に関係していたこと」がネグレクトされ、街の歴史が後世に伝えられていないからです。「戦前のことは何でも悪い」という戦後の教育の中で、なるべく触れられないようにしてきたからです。数年前、小学校、中学校時代の恩師たちに訊いたことがあります。「なぜ教えないのか」と。しかし、答えの多くは「特別な理由はない」という拍子抜けするものでした。「戦争に関係することには触れない方が無難」という周囲の空気の中で触れてこなかったというのです。


もちろん戦後、「南京大虐殺」という言葉が独り歩きしていたこともあるでしょう。36連隊は当時の中華民国の首都・南京の攻防戦に従軍、光華門に一番乗りを果たし、全国に有名を轟かせた部隊だからです。教員たちが「ひょっとしたら、36連隊の人も関わっていたかも」と考えるの人がいても無理はありません。虐殺はあった、と頭から思い込んでいるのですから。故に36連隊のことにはなるべく触れないようにしようとしなかったという側面もあるでしょう。しかし、事件の真偽を確かめることなく、くさい物に蓋をするような姿勢は、イジメを知りながら知らなかったことにするのと同根の事なかれ主義です。


36

鯖江にあった歩兵36連隊は1896年(明治29年)、日清戦争後の軍備増強の中で創設された部隊です。兵隊は嶺北を中心に徴兵されました。この時、全国で6個師団が増設されました。36連隊が所属した金沢に司令部を置く第9師団もその一つ。第9師団は、金沢の歩兵第7連隊、敦賀の歩兵第19連隊、そこに新設の歩兵第35連隊(富山)、歩兵第36連隊(鯖江)を加えて編成されました。


36連隊の最初の大きな戦いは1904年(明治37年)、日露戦争時の旅順要塞攻防戦でした。この時、第9師団は、有名な乃木希典(のぎ・まれすけ)率いる第3軍の一翼を担います。映画「二〇三高地」やドラマ「坂の上の雲」などで、ロシア側の要塞や陣地に肉弾突撃している兵士たちが登場しますが、36連隊も突撃を繰り返し、伊藤連隊長以下、多大の犠牲を出しました。福井県史によれば、その後の奉天大会戦を含め、戦死1,492、負傷4,096という損害を出しています。当時の連隊の定員は約1,800、補充を受けながらの凄まじい損害ですね。


時代は大正期に入り、36連隊は朝鮮半島に駐留して警備に当たり、その途中でシベリア出兵にも参加、ウラジオストックの警備に当たります。その後、関東大震災が起きると、いまでいう「災害派遣」で東京西南部の警備と復旧に投入されました。そして、昭和に入って、また大きな戦いに投入されます。昭和12年(1937年)2月、満州国の首都・新京の(いまの長春です)警備を終えて鯖江に帰還して半年足らずで、日中戦争の始まりとなる支那事変が起きて上海に派遣されたのです。


大変だったのは、実はその後です。上海での戦いを終えると、そのまま南京の攻略を命じられたからです。南京は中華民国の首都。防衛部隊はドイツの軍事顧問団の指導の下、徹底抗戦を命じられていました。しかし、36連隊は(連隊長の名を取って脇坂部隊と呼ばれていましたが)激戦の末、南京の光華門に一番乗りを果たすのです。36連隊ここにありと、称えられたことは言うまでもありません。しかも、その後の徐州会戦などに参加。鯖江へ帰還したのは1939年(昭和14年)6月でした。


翌1940年(昭和15年)7月、36連隊は第9師団から離れます。4つの連隊で1個師団、というそれまでのスタイルから、3つの連隊で1個師団というスタイルに変わり、第9師団は金沢7連隊、敦賀19連隊、富山35連隊という編成に変わったのです。そこで浮いた36連隊は、第28師団所属となりました。28師団は新京で編成され、東京3連隊、高田30連隊、鯖江36連隊で構成されました。いわゆる「関東軍」を構成する部隊で、それからしばらくは新京、斉斉哈爾(チチハル)の警備を担いました。しかし、戦況の悪化で「関東軍」部隊の南方への投入が続き、36連隊も1944年(昭和19年)6月、絶対防衛圏とされたサイパン島防衛に向かうことになります。ただ、出発前に守備隊は玉砕、作戦は中止となります。すると直後、今度は28師団全体が沖縄防衛戦に投入されるのです。


沖縄防衛のため、戦争指揮を行っていた大本営は、まず陸軍屈指の精強部隊と謳われていた第9師団を沖縄に送ります。そう、36連隊が属していた、あの第9師団です。ところが、米軍が台湾を攻撃してくる可能性もあると不安になり、沖縄に送った第9師団を台湾に移動させてしまうのです。そしてその穴を埋めるため沖縄に送られたのが、第28師団なのです。なんという巡り合わせでしょう。第28師団は沖縄を護っていた第32軍に編入され、「先島集団」として宮古島・石垣島、大東島の守備に就きました。沖縄本島の出城となって敵を食い止めろ、ということですが、押し寄せる米軍を前にそれが適うはずもなく、捨て石を担う過酷な役目でした。ただ、1945年(昭和20年)4月1日、米軍は宮古・石垣島を飛ばして沖縄本島に上陸。36連隊は米軍と闘わず、そのまま終戦を迎えました。元々所属していた第9師団も台湾の守備に就いていて、米軍とは交戦せずに終わりました。


それから70年余り。いまだに100万柱の遺骨が海外に放置されたままです。「骨は拾ってやる」という言葉はいったい、どこの国の言葉なのでしょう。経済大国日本と胸を張っても、内実はこれです。英霊はみな、国の命令で、天皇の名の下に行われた戦争のために戦地に赴いたのです。そうした人たちへの仕打ちがこれです。戦後、行政は政治的、思想的中立性を保つという建前の下、戦争のことを「過ぎたこと」にして、ちゃんと向き合わずにきました。しかし、英霊の慰霊に右も左もないでしょう。慰霊行事を「軍国主義の復活に繋がる」などと言って邪魔する人間こそ、思想問題を持ち込んでいる張本人です。すべてを遺族会という私的な集まりに任せた、これも事なかれ主義です。しかし、ご多分にもれず、36連隊の遺族会も高齢化して解散寸前です。行政がちゃんと世話をしていく仕組みを考えないといけない時期にきているのです。国のためと信じ、国のために一生懸命戦い、命を捧げた彼らを犬死にしないために。


  田中の仕事 2018 
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